それさえもたぶん退屈な日々。

ぼんやりしてて自動移行されました

職業作家の話(皆川ゆかと津原やすみの場合)

触発元:ラノベ作家が放つ渾身の一撃を味わいたい - ブログというか倉庫


はてブのコメントで宣言したとおり皆川ゆかの記述を掘り返したので以下引用。
長くてちょっと泣きそうになったけど、現状、書店で気軽に確認よろしく!といえる本じゃないのでがんばるよ。
運命のタロット』シリーズが「諸般の事情で絶望的*1」だった状況で書かれた後書きです。

 プロとして職業的に作家業を営んでいる人間は、三つの要素を満たさなければならないと、個人的には考えています。
 第一に商業性──資本主義の社会で生活しているわけです。作品を出してくれる出版社としても、利益のないものを出すわけにはいきません。売り上げが支えているのは作家の生活だけではなく、社員の生活でもあるわけです。だから、作家は売れるものを書かねばなりません。
 しかし、この要件は「売れればそれでいいのか?」という問題を含んでいます。極端な話をするなら、純文学や古典はそうそう売れるものではありません。だからといって書店の棚から消し去るわけにはいきません……だから、余力のある大きな出版社(たとえば、講談社さんですね)は、そういった本を着実に出版し、灯を消さないようにしているわけです。
 第二に読者の満足──作品は読んでくれる読者なしには存在しえません。読者の要望を満たすような作品を書かねばなりません。
 しかし、一方で、読者に媚びるという部分を常に戒めねばなりません。たとえば、人気のあるキャラクターが死ぬとしましょう。そのキャラを「生き返らせて」とか「死なせないで」という要望に常に従うなら、ストーリーは必然を失ってしまいます。単純な、その場限りの欲望は満足させられるでしょうが、あとで振り返ってみて納得してもらえるかどうかは疑問です。
 だから、作家は常に読者の期待を満たしながら、同時に裏切ることが求められます。
 第三に物語の要請──ストーリーは必然によって動いています。たとえば、終わらせるために、「突然、そらから隕石が落ちてきて主人公以下、全員死亡」という一行を加えれば、それは物語に対する裏切りです。
 かといって、作家が物語に固執した場合、読者の求めるところから乖離することがありますし、商業性を満たすことができなくなることもあります。
 この三つの要件はたがいに相反するものです。
 しかし、この三つをバランスよく満たして、始めて、職業作家といえるはずです。
 そのうちどれかひとつを優先すれば、その人は失格です。
 皆川ゆかは、そういった意味合いにおいては職業作家失格です。
 第三の要件を優先してしまいました。

皆川ゆか『運命のタロット 11 《神の家》は涙する』講談社X文庫(1996)pp.295-296


結果、当初全11巻の予定だった第一部*2が、全13巻になり第二部開始までこぎつけるわけですが、これは、「作家が物語を優先させてうまく行った希少例」だと思います。
ついでに津原やすみ*3が「作家が物語を優先させた」ことについて書いていたのを思い出したのでそちらも引用。
長いけど引用する理由は皆川ゆかと一緒。手に入らないんだよもう。

「売れ線」というのは、たしかに存在するみたいです。
 読んだ直後に内容を忘れてしまうような本でも、「売れ線」であればある程度は確実に売れるし、読者の人生を変えてしまうほどの凄い本でも、「売れ線」でないとやっぱり売れにくい、ということです。
 いえべつに、なんで津原やすみの本がベストセラーにならないのか? なんて悲しい話題じゃなくてですね。
 津原やすみの本、という非常に狭い範疇においても、当然「売れ線」と「売れない線」の両方があるという、そういうお話です。
 売れる本の場合、書いてる最中からすでに、こりゃ売れるわ、という感触があります。
 まあ売れるったって、あくまで津原やすみにしては、ですが。
 ともかく、作品の出来不出来とは無関係に、「売れ線」「売れない線」の予感があるわけです。
 テーマの取り方とか、文体とか、ストーリーのテンポとか、会話文の量とか。
 そのへんの印象からの予感というか、正確には予想ですね。
 これまでのところ、的中率はほぼ100パーセント。
 きっと今回も当たってしまうんでしょうが、しかしあえて告白します。
 この本は恐らく、これまでの津原やすみの本の中で、最も「売れ線」から遠い本です。
 究極の「売れない線」の本。
 でも、どうしても書きたかった本です。
 書かねばならなかった、というか。
 きっと”あたしのエイリアン”の中でも、特に重要な一冊になることでしょう。
 だからこそ本当は、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいし。
 今回に限っては、予想が思いっきり外れてほしいもんだ、と心から祈ってるんです。

津原やすみ『五月日記』講談社X文庫(1991)pp.272-273


そんで、自分の意見を言おうかと思ったのだけどさっくり言われてしまったのでそちらを引用させていただいておしまい。

作者が己の魂のみに忠実になって編集の干渉を排除してまで書きなぐったものなんて、そうそう面白いものにならないし、想定されうる読者層は当然ごく狭くなるから、たとえ作品の質が高かったとしても、それを十全に楽しめる読者は限られたものになる。

渾身の一撃というよりかは、「俺の急所にヒットする一撃」なんだと思う - むやむやと考える

追記(2007/09/10)

ラノベという言葉はあれども今ほど市場が広がっている頃ではないころのティーンズハートでこういう後書きをかけたというのは結構驚きかもしれない。懐広いよね、講談社
あと、はてブのコメントであがっている花井愛子*4も原文を読んだことがあるんだけど、どこで読んだのかは失念しているのと手元に一冊もないことからさすがにあきらめた。
ただ、最近読んだ気もするのでいわゆる「このラノ」とかあのへんのインタビューのなかで読んだのかもしれない。判明したら追記します。

*1:運命のタロット 13 《女教皇》は未来を示す』においての表現

*2:どころかこれで全部になる予定だった。

*3:当時はこちらの名義だったので表記もこちらで。

*4:このひともティーンズハートの人。